価値なき神の哲学日記 No33にちなんで
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2005.09.20
人間の主体性と神の支配との関係
「価値なき神」の哲学日記 №33
人間の主体性と神の支配との関係、その1
at 2004 05/15 13:22 編集
私の哲学の本の一冊目は、一般の人にも読んでもらえるように、一定の面白さと、話に具体性を持たせるよう心がけて書いています。
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人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことと相補関係になっています。したがって、そのように問うことは、神の存在そのものを前提として成立っています。現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところでありますが、現実問題としてはそのようになってはいません! 実際、自分あるいは自分の家族が極限状態におかれたときなど、そのことが顕著になります。
まあ、ジャック・モノー、リチャード・ドーキンス、ダニエル・デネット、ロジャー・ペンローズ、スチュアート・カウフマン、マレー・ゲルマンといったレベルの一連の無神論者たちぐらいになれば、少々のことが起こっても”唯物論”の立場を放棄するような”やわ”なことにはならないでしょうが、一般のほとんどすべてのひとびとは何か”こと”が起こると、都合に応じてころころと主張を切り換えてしまいます。(心情的にはよくわかります…)
さて、本題にもどりましょう。上にでてくるカタカナの名前の一連の人間がどういう人間で何を主張しているかそういう”細かい”ことは一切忘れてください! 上の一連の科学者たちは典型的な”唯物論者”たちであるというそのことだけを頭に入れておいてください。それで、今ここで議論しているのは人間の”主体性”についてであり、”主体的に生きる…”ということがどのようなことを意味しているのかを問うているわけです。
まず、上にでてきた一連の科学者たちは”主体的に生きてきたか…”と問えば、その答えはもちろん”はい”です。彼等はたしかに”神”の存在を否定していますが、唯物論の射程の範囲で”学問”について、”人生”について、”善”について、”悪”について、”進化論”について、”人間”について、”世界”について、”存在”について、”認識”について、”生命”について、その他もろもろの考察の諸対象について、できるだけ誠実に答えようとしてきました。もちろん、彼等の主張のすべてが正しいわけではありませんが、少なくとも自分たちが”唯物論”という前提に立脚してすべての議論を展開しているという、そのことに関しては”ブレ”はありません。
一方、”平均的なアメリカ人の場合は…”と問えば、これが大問題なのです! テレビのニュースなどで既にご存知かとお思いですが、彼等の80%ぐらいは”進化論”そのものを拒否しています。ある意味で”イスラム原理主義者”とかなり似たようなスタンスをとっているわけです。つまり、聖書のことばを文字通り”そのまま受け入れる ”…という立場を肯定するひとびとが、こと、アメリカでは圧倒的に多いのです。別にそのことだけなら大問題ではありません。実は、”主体的に生きる…”というこのことが、どのような意味でとらえられているかによって、その意味が違ってくるからなのです。
さて、一般にすぐれた科学者たちは議論の対象が”唯物論”の射程に収まるものであれば、それがどれ程複雑であれ、錯綜したものであれ、矛盾したものであれ、予想外のものであれ、最終的には論理的にものごとを考えて誠意をもって諸結論を受け入れます。一方、平均的なアメリカのクリスチャンは最初からそれぞれの宗派の主張するところの”信仰信条”を絶対的な”真理”として頑なまでに鵜呑みにしています! 尤も、そうなった理由は理解できないものではありませんが。
いずれにしても、”唯物論”を根拠に誠実に、かつ、主体的に生きている上記に示された一連の人々と、”聖書”を根拠に信仰的、かつ、主体的に生きている平均的アメリカのクリスチャンが、それぞれ、相手側の生き方の”主体性”そのものの妥当性を受け入れることができなくなってしまったとしたらどうなるのでしょうか?
人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことと相補関係になっています。したがって、そのように問うことは、神の存在そのものを前提として成立っています。しかし、現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところであります。そこで、議論を整理するとこうなります。
神の存在を前提とする人間にとって”主体性”とは”神”との関係における主体性である…と。
一方、神の不在を前提とする人間にとって”主体性”とは”宇宙(=物質)”との関係における自立である…と。一方は”精神”、”魂”、”意識”、”霊”、”ピュシス”、”プシケー”、”ゾーエー”といったものを存在の第一義性におき、もう一方は”物質”の存在のみに意義を認める立場です。
特に、19世紀から現在にいたる人類の歴史を鑑みるにつけ、物質と精神のこのふたつの関係に纏わるもろもろの現象が今日にいたる哲学の系譜を成立させてきたわけでありますが、このふたつの軋轢、断絶、相互否定…といったものがこれまでの人間の悲劇を生み出してきた源泉なのでした。
人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことも意味しています。神の存在を肯定する人間は、主体性を”神のまえの主体性”として認識しているのです。一方、現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところでありますが、神の存在を否定する立場の人間が人間の主体性を問う場合、その主体性とは”唯物論”の射程のなかでの”倫理性”、”合理性”、”積極性”、”妥当性”、”有効性”、”実用性”…といったことがらに矮小化されてしまうことも、これまた事実なのです。
問題は、自分あるいは自分の家族が極限状態におかれたとき、最後まで”唯物論”の範囲ですべてのものごとを解決することができるのか否かです。
この議論はさらにつづきます。