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思想および世相に関する諸々のコメント


by msaicc
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いじめの問題について

モツニ(吉田正司)はいじめの問題について色々なコメントを持っていたと思われますが、他界してしまった今となっては聞くこともできません。「拝啓 小学生のみなさんへ」の中でいじめの事を取り上げていますので、ご一読下さる様お願いします。(モツニの弟)
# by msaicc | 2006-07-22 02:12 | いじめ問題
システム処理、記号処理、意味処理、知識処理、発見モデル、生成モデルといった一連の処理のなかで、意味論的空間トポロジーとは意味処理の中枢となる根本的な概念である。

『意味論的空間トポロジー』の内容

     目  次

序論の序(創出の過程)

序論(予備的考察)

第1章 測定d vs 測定α

第2章 距離の概念

第3章 近傍と近傍系

第4章 被覆とコンパクト性

第5章 特異点(特殊概念空間)

第6章 関係概念の抽象化

第7章 誘導空間

第8章 基本近傍系、フィルタ基、(フィルタによる生成系)
     
第9章 射影的極限、

第10章 帰納的極限

第11章 指向性と指向性群(ミーム、ミーム群)

※ その他の課題:

   ■意味論空間における、群、環、帯の概念。

   ■意味処理と変換群、置換群、交換群、回転群との関係

   ■位相群、部分位相、局所コンパクト、その他の概念と意味処理

意味論的空間トポロジー
# by msaicc | 2005-10-03 00:24 | 人工知能
人工知能、意味処理、知識処理、脳科学、神経科学といった一連のキーワードが巷に溢れるようになってからどのぐらいの歳月がながれたのでしょうか。

さて、この最先端の分野で、誰がどのような”飛躍”を遂げているのでしょうか。アメリカでも、日本でも、またヨーロッパでもこの分野で決定的なブレークスルーがなされたということは訊いておりません。

わたくしは20年ほど前、『ゲーデル・エッシャ・バッハ』を数日で読破したあと、そこで議論されていたいくつかの決定的に重要な概念についてずうっと研究してまいりました。そして、とうとう、>意味論的空間トポロジーとい新しい概念を創出するにいたりました。

ここでは、その概略をごくかいつまんでご紹介します。
 
わたくしが提案する人工知能システムは、電子シソーラス・システムとしてのAIシステムです。このシステムはもろもろの機械翻訳システムからの要求に応えて、本格的な”意味処理”を提供する”類語辞典システム”でもあります。もちろん、人間からの翻訳ニーズにも応えられシステムです。そのシステムの名前をICCシソーラスと呼んでいます。

この”ICCシソーラス”は、本格的AIシステムであることを意識して設計されたシステムですが、それを可能にするいくつかの処理概念として、”システム処理”、”記号処理”、”意味処理”、”知識処理”、”発見モデル”、”生成モデル”、”世界認識モデル”という単位にまとめられています。

システム処理、記号処理、意味処理、知識処理、発見モデル、生成モデルのそれぞれについてはこれからこのブログですこしづつご紹介させていただきます。

これらの概念はすべて”基本設計概念”というドキュメントに収められいます。したがって、少しづつみなさんにもその内容をご紹介させていただきますのでご期待ください。ただし、ドキュメントの性質上、著作権に関るものが多々ございますので、引用、リンクおよびTRB等に際しましては十分ご注意願います。

基本ドキュメント:

■ 基本設計概念Ⅰ(全体構成)
■ 基本設計概念Ⅱ(システム処理)
■ 基本設計概念Ⅲ(記号処理)
■ 基本設計概念Ⅳ(意味処理) -------> 意味論的空間トポロジー
■ 基本設計概念Ⅴ(知識処理)
■ 基本設計概念Ⅵ(発見モデル)
■ 基本設計概念Ⅶ(生成モデル)

個別ドキュメント:

■ 格概念
■ Zシステム
■ ZZシステム
■ 概念の抽象化
■ 処理の抽象化
■ エージェント論
■ B概念、B空間
■ フレームの概念
■ 意味論的空間トポロジー
■ YS理論(吉田ソシュール理論)
# by msaicc | 2005-10-02 09:55 | 人工知能
意味処理への道のり:

機械翻訳がそれなりに実現した現在、このレベルから、ほんものの人間のレベルにまでもってゆくにはどのような”major breakthrough"が展開されなければならないか、このことについていくつか論じてみたい。

 さて、機械翻訳がそれなりに実現したといっても、実際はまだまだ本格的な機械翻訳が可能になるまでは相当ながい年月が掛かることは間違いありません。なぜなら、意味処理の根本的な問題がまったく解決されていないからなのです。

 現在までの意味処理の原理は実体論的な範疇の考え方であり、従来の情報処理理論あるいはソフトウエア科学の延長線上にある考え方から一歩も脱却していません。つまり、ぶっちゃけた話、情報処理のレベルなのです。それが、たとえ一太郎のあのソフトの考え方であろうと、ちまたに溢れている諸の翻訳ソフトにしても、その他、AIソフトと名前がついているほとんどすべてのソフトに登載されているAI原理は本来のAIレベルの原理とは程遠い…というのが実情です。なぜそのように強く主張できるかといいますと、私は”意味処理”の分野でアインシュタイン”の一般相対性理論”に匹敵するようなそういう本格的な理論を確立したからなのです。

 名づけて”意味論的空間トポロジー”と呼んでいる概念です。これを理解するには、ソシュールの言語学、記号学が完全に理解できていて(つまり、故丸山圭三郎先生のすべての著作を完璧に理解し、かつ、前田英樹さんの『沈黙するソシュール』をほぼ完璧に理解しているレベル)、かつ、岩波の数学基礎講座の『集合と位相Ⅰ、Ⅱ』(彌永昌吉、彌永健一)を完璧に理解していて、かつ、長尾真先生のほぼすべての著作を完璧に理解していて、かつ、『GEB』、『解明された意識』(ダニエル・デネット)、『意識するこころ』(デヴィド・チャーマーズ)、『ダーウィンの危険な思想』、『カウフマン宇宙を語る』(スチュアート・カウフマン)、『クウォークとジャガー』(マレー・ゲルマン)…といった一連の読み物を数日以内で完璧に理解できる程度の素養が要求されます。

 私としては、できれば長尾真先生に”意味論的空間トポロジー”を読んでいただきたいのですが、どのように先生とアクセスしていいかわからないので(最近個人情報保護法というある意味で極めて悪い法律ができてしまったため、本来あるべき学際的交流に非常に支障をきたしているのですが、それはそれとして…)、まあ、このようなブログを介して、あわてず、じっくり、時期が到来するのを待っている状態です。

 そのうち、コメント、トラックバックといった方法で連絡がとれるようになるでしょうし、ぶっちゃけた話、無数にある使い物にならないウェブサイトが、できるだけ早く消えてなくなることをこころより願っている者のひとりであるということをはっきり申し上げておきますが、いずれにしても、インターネットの主流はブログに移行しつつあります。

 ウェブサイトでそれなりに研究内容を展開している方々のサイトを見かけますが、スピードが遅過ぎます。別に毎日更新する必要はありませんが、最低週一回ぐらいのペースでページアップが成されない限り、問題があります。

 まあ、そういう意味では、ブログは極めて有効ではありますが、ゴミのような多くのブログのなかで、わたくしのこのブログのように内容があるブログを捜すのはそれこそ”藁の中から針を捜すようなものでしょう。

 まあ、ライブドアさんも、エキサイトさんもバカではないでしょうから、学術ブログというものを専門的に領域化し、さらに個別の分野ごとに細分化してくれるようなそのようなサービスを展開してくれることをお待ちしております!

 さて、話をもどし、意味論的空間トポロジーとは純粋数学とソシュールの記号学が完全に合体した学問なのです。つまり、純粋数学であり、かつ、意味処理でもあるようなそのような未来型、学際型の全くあたらしい専門領域なのです。

 繰返しますが、博士レベルの必要はありませんが、大学の上級レベルでの『集合論』と『一般トポロジー』の知識は前提となっています。つまり、測度理論、ε-δスタイルの議論、コンパクト・Hausdorff空間といった知識と、もう一方の言語学、記号学に関しては、ソシュールのいわゆる”恣意性”と”差異性”の概念について、少なくとも丸山圭三郎先生が理解したそれと同程度のレベルでソシュールの基本的な考え方を理解している必要があるということなのです。

 ダグラス・ホフスタッター、デネット、ドーキンス、チャーマーズ、茂木健一郎…といった連中の著作を理解するには、数日で足りますが、フッサール、ハイデッガー、ニーチェ、キルケゴール、ソシュール、あるいは”測度理論”、”コンパクト空間”、”hausdorff空間”、”コンパクトhausdorff空間”、”Zornの補題”、”Urysonの補題”、”Tietzeの拡張定理”、”一般連続体仮説”…といった概念をしっかり理解するにはそれなりの時間と年期がかかりますから、それだけは念をおしておきます。尤も、とくに、コンパクト性、局所コンパクト性、一様コンパクト性といったことがらが瞬間にして何を意味するかイメージできるひとはこの世界での”オタク”でなければ駄目でしょう。(わたしは純粋数学については最小限度の知識しか持ち合わせていません。けれど、Zornの補題、Urysonの補題、Tietzeの拡張定理を教科書に沿って理解することは十分できます。ただ、自分でゼロから証明せよと問われればできませんが)

 まあ、だいぶ話が横道に逸れてしまいましたが、”意味処理”をほんとうに制するには”意味論的空間トポロジー”を完全に理解できなければ絶対にできないということは保証します。

(以下、次回につづく)
# by msaicc | 2005-09-22 10:37 | 知識処理
価値なき神の哲学日記 No33にちなんで

 http://app.blog.ocn.ne.jp/t/trackback/1981905

2005.09.20
人間の主体性と神の支配との関係
 「価値なき神」の哲学日記 №33
            人間の主体性と神の支配との関係、その1
                       at 2004 05/15 13:22 編集

 私の哲学の本の一冊目は、一般の人にも読んでもらえるように、一定の面白さと、話に具体性を持たせるよう心がけて書いています。

------------------------------(以上は引用です)-----------------------------

人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことと相補関係になっています。したがって、そのように問うことは、神の存在そのものを前提として成立っています。現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところでありますが、現実問題としてはそのようになってはいません! 実際、自分あるいは自分の家族が極限状態におかれたときなど、そのことが顕著になります。

まあ、ジャック・モノー、リチャード・ドーキンス、ダニエル・デネット、ロジャー・ペンローズ、スチュアート・カウフマン、マレー・ゲルマンといったレベルの一連の無神論者たちぐらいになれば、少々のことが起こっても”唯物論”の立場を放棄するような”やわ”なことにはならないでしょうが、一般のほとんどすべてのひとびとは何か”こと”が起こると、都合に応じてころころと主張を切り換えてしまいます。(心情的にはよくわかります…)
 
 さて、本題にもどりましょう。上にでてくるカタカナの名前の一連の人間がどういう人間で何を主張しているかそういう”細かい”ことは一切忘れてください! 上の一連の科学者たちは典型的な”唯物論者”たちであるというそのことだけを頭に入れておいてください。それで、今ここで議論しているのは人間の”主体性”についてであり、”主体的に生きる…”ということがどのようなことを意味しているのかを問うているわけです。

 まず、上にでてきた一連の科学者たちは”主体的に生きてきたか…”と問えば、その答えはもちろん”はい”です。彼等はたしかに”神”の存在を否定していますが、唯物論の射程の範囲で”学問”について、”人生”について、”善”について、”悪”について、”進化論”について、”人間”について、”世界”について、”存在”について、”認識”について、”生命”について、その他もろもろの考察の諸対象について、できるだけ誠実に答えようとしてきました。もちろん、彼等の主張のすべてが正しいわけではありませんが、少なくとも自分たちが”唯物論”という前提に立脚してすべての議論を展開しているという、そのことに関しては”ブレ”はありません。

 一方、”平均的なアメリカ人の場合は…”と問えば、これが大問題なのです! テレビのニュースなどで既にご存知かとお思いですが、彼等の80%ぐらいは”進化論”そのものを拒否しています。ある意味で”イスラム原理主義者”とかなり似たようなスタンスをとっているわけです。つまり、聖書のことばを文字通り”そのまま受け入れる ”…という立場を肯定するひとびとが、こと、アメリカでは圧倒的に多いのです。別にそのことだけなら大問題ではありません。実は、”主体的に生きる…”というこのことが、どのような意味でとらえられているかによって、その意味が違ってくるからなのです。

 さて、一般にすぐれた科学者たちは議論の対象が”唯物論”の射程に収まるものであれば、それがどれ程複雑であれ、錯綜したものであれ、矛盾したものであれ、予想外のものであれ、最終的には論理的にものごとを考えて誠意をもって諸結論を受け入れます。一方、平均的なアメリカのクリスチャンは最初からそれぞれの宗派の主張するところの”信仰信条”を絶対的な”真理”として頑なまでに鵜呑みにしています! 尤も、そうなった理由は理解できないものではありませんが。

 いずれにしても、”唯物論”を根拠に誠実に、かつ、主体的に生きている上記に示された一連の人々と、”聖書”を根拠に信仰的、かつ、主体的に生きている平均的アメリカのクリスチャンが、それぞれ、相手側の生き方の”主体性”そのものの妥当性を受け入れることができなくなってしまったとしたらどうなるのでしょうか?

 人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことと相補関係になっています。したがって、そのように問うことは、神の存在そのものを前提として成立っています。しかし、現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところであります。そこで、議論を整理するとこうなります。

 神の存在を前提とする人間にとって”主体性”とは”神”との関係における主体性である…と。
一方、神の不在を前提とする人間にとって”主体性”とは”宇宙(=物質)”との関係における自立である…と。一方は”精神”、”魂”、”意識”、”霊”、”ピュシス”、”プシケー”、”ゾーエー”といったものを存在の第一義性におき、もう一方は”物質”の存在のみに意義を認める立場です。

 特に、19世紀から現在にいたる人類の歴史を鑑みるにつけ、物質と精神のこのふたつの関係に纏わるもろもろの現象が今日にいたる哲学の系譜を成立させてきたわけでありますが、このふたつの軋轢、断絶、相互否定…といったものがこれまでの人間の悲劇を生み出してきた源泉なのでした。

 人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことも意味しています。神の存在を肯定する人間は、主体性を”神のまえの主体性”として認識しているのです。一方、現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところでありますが、神の存在を否定する立場の人間が人間の主体性を問う場合、その主体性とは”唯物論”の射程のなかでの”倫理性”、”合理性”、”積極性”、”妥当性”、”有効性”、”実用性”…といったことがらに矮小化されてしまうことも、これまた事実なのです。

 問題は、自分あるいは自分の家族が極限状態におかれたとき、最後まで”唯物論”の範囲ですべてのものごとを解決することができるのか否かです。


 この議論はさらにつづきます。
# by msaicc | 2005-09-20 10:38 | 価値なき神