哲学日記
2006-07-22T02:22:11+09:00
msaicc
思想および世相に関する諸々のコメント
Excite Blog
いじめの問題について
http://msaicc.exblog.jp/3855270/
2006-07-22T02:12:00+09:00
2006-07-22T02:22:11+09:00
2006-07-22T02:12:41+09:00
msaicc
いじめ問題
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意味論的空間トポロジー(目次構成)
http://msaicc.exblog.jp/1236687/
2005-10-03T00:24:10+09:00
2005-10-12T01:13:27+09:00
2005-10-03T00:22:12+09:00
msaicc
人工知能
『意味論的空間トポロジー』の内容
目 次
序論の序(創出の過程)
序論(予備的考察)
第1章 測定d vs 測定α
第2章 距離の概念
第3章 近傍と近傍系
第4章 被覆とコンパクト性
第5章 特異点(特殊概念空間)
第6章 関係概念の抽象化
第7章 誘導空間
第8章 基本近傍系、フィルタ基、(フィルタによる生成系)
第9章 射影的極限、
第10章 帰納的極限
第11章 指向性と指向性群(ミーム、ミーム群)
※ その他の課題:
■意味論空間における、群、環、帯の概念。
■意味処理と変換群、置換群、交換群、回転群との関係
■位相群、部分位相、局所コンパクト、その他の概念と意味処理
意味論的空間トポロジー]]>
意味論的空間トポロジー(全体の位置づけ)
http://msaicc.exblog.jp/1223789/
2005-10-02T09:55:35+09:00
2005-10-12T01:17:54+09:00
2005-10-02T09:53:39+09:00
msaicc
人工知能
さて、この最先端の分野で、誰がどのような”飛躍”を遂げているのでしょうか。アメリカでも、日本でも、またヨーロッパでもこの分野で決定的なブレークスルーがなされたということは訊いておりません。
わたくしは20年ほど前、『ゲーデル・エッシャ・バッハ』を数日で読破したあと、そこで議論されていたいくつかの決定的に重要な概念についてずうっと研究してまいりました。そして、とうとう、>意味論的空間トポロジーとい新しい概念を創出するにいたりました。
ここでは、その概略をごくかいつまんでご紹介します。
わたくしが提案する人工知能システムは、電子シソーラス・システムとしてのAIシステムです。このシステムはもろもろの機械翻訳システムからの要求に応えて、本格的な”意味処理”を提供する”類語辞典システム”でもあります。もちろん、人間からの翻訳ニーズにも応えられシステムです。そのシステムの名前をICCシソーラスと呼んでいます。
この”ICCシソーラス”は、本格的AIシステムであることを意識して設計されたシステムですが、それを可能にするいくつかの処理概念として、”システム処理”、”記号処理”、”意味処理”、”知識処理”、”発見モデル”、”生成モデル”、”世界認識モデル”という単位にまとめられています。
システム処理、記号処理、意味処理、知識処理、発見モデル、生成モデルのそれぞれについてはこれからこのブログですこしづつご紹介させていただきます。
これらの概念はすべて”基本設計概念”というドキュメントに収められいます。したがって、少しづつみなさんにもその内容をご紹介させていただきますのでご期待ください。ただし、ドキュメントの性質上、著作権に関るものが多々ございますので、引用、リンクおよびTRB等に際しましては十分ご注意願います。
基本ドキュメント:
■ 基本設計概念Ⅰ(全体構成)
■ 基本設計概念Ⅱ(システム処理)
■ 基本設計概念Ⅲ(記号処理)
■ 基本設計概念Ⅳ(意味処理) -------> 意味論的空間トポロジー
■ 基本設計概念Ⅴ(知識処理)
■ 基本設計概念Ⅵ(発見モデル)
■ 基本設計概念Ⅶ(生成モデル)
個別ドキュメント:
■ 格概念
■ Zシステム
■ ZZシステム
■ 概念の抽象化
■ 処理の抽象化
■ エージェント論
■ B概念、B空間
■ フレームの概念
■ 意味論的空間トポロジー
■ YS理論(吉田ソシュール理論)
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『意味論、意味処理、知識処理』
http://msaicc.exblog.jp/1058632/
2005-09-22T10:37:35+09:00
2005-10-03T00:08:47+09:00
2005-09-22T10:35:42+09:00
msaicc
知識処理
機械翻訳がそれなりに実現した現在、このレベルから、ほんものの人間のレベルにまでもってゆくにはどのような”major breakthrough"が展開されなければならないか、このことについていくつか論じてみたい。
さて、機械翻訳がそれなりに実現したといっても、実際はまだまだ本格的な機械翻訳が可能になるまでは相当ながい年月が掛かることは間違いありません。なぜなら、意味処理の根本的な問題がまったく解決されていないからなのです。
現在までの意味処理の原理は実体論的な範疇の考え方であり、従来の情報処理理論あるいはソフトウエア科学の延長線上にある考え方から一歩も脱却していません。つまり、ぶっちゃけた話、情報処理のレベルなのです。それが、たとえ一太郎のあのソフトの考え方であろうと、ちまたに溢れている諸の翻訳ソフトにしても、その他、AIソフトと名前がついているほとんどすべてのソフトに登載されているAI原理は本来のAIレベルの原理とは程遠い…というのが実情です。なぜそのように強く主張できるかといいますと、私は”意味処理”の分野でアインシュタイン”の一般相対性理論”に匹敵するようなそういう本格的な理論を確立したからなのです。
名づけて”意味論的空間トポロジー”と呼んでいる概念です。これを理解するには、ソシュールの言語学、記号学が完全に理解できていて(つまり、故丸山圭三郎先生のすべての著作を完璧に理解し、かつ、前田英樹さんの『沈黙するソシュール』をほぼ完璧に理解しているレベル)、かつ、岩波の数学基礎講座の『集合と位相Ⅰ、Ⅱ』(彌永昌吉、彌永健一)を完璧に理解していて、かつ、長尾真先生のほぼすべての著作を完璧に理解していて、かつ、『GEB』、『解明された意識』(ダニエル・デネット)、『意識するこころ』(デヴィド・チャーマーズ)、『ダーウィンの危険な思想』、『カウフマン宇宙を語る』(スチュアート・カウフマン)、『クウォークとジャガー』(マレー・ゲルマン)…といった一連の読み物を数日以内で完璧に理解できる程度の素養が要求されます。
私としては、できれば長尾真先生に”意味論的空間トポロジー”を読んでいただきたいのですが、どのように先生とアクセスしていいかわからないので(最近個人情報保護法というある意味で極めて悪い法律ができてしまったため、本来あるべき学際的交流に非常に支障をきたしているのですが、それはそれとして…)、まあ、このようなブログを介して、あわてず、じっくり、時期が到来するのを待っている状態です。
そのうち、コメント、トラックバックといった方法で連絡がとれるようになるでしょうし、ぶっちゃけた話、無数にある使い物にならないウェブサイトが、できるだけ早く消えてなくなることをこころより願っている者のひとりであるということをはっきり申し上げておきますが、いずれにしても、インターネットの主流はブログに移行しつつあります。
ウェブサイトでそれなりに研究内容を展開している方々のサイトを見かけますが、スピードが遅過ぎます。別に毎日更新する必要はありませんが、最低週一回ぐらいのペースでページアップが成されない限り、問題があります。
まあ、そういう意味では、ブログは極めて有効ではありますが、ゴミのような多くのブログのなかで、わたくしのこのブログのように内容があるブログを捜すのはそれこそ”藁の中から針を捜すようなものでしょう。
まあ、ライブドアさんも、エキサイトさんもバカではないでしょうから、学術ブログというものを専門的に領域化し、さらに個別の分野ごとに細分化してくれるようなそのようなサービスを展開してくれることをお待ちしております!
さて、話をもどし、意味論的空間トポロジーとは純粋数学とソシュールの記号学が完全に合体した学問なのです。つまり、純粋数学であり、かつ、意味処理でもあるようなそのような未来型、学際型の全くあたらしい専門領域なのです。
繰返しますが、博士レベルの必要はありませんが、大学の上級レベルでの『集合論』と『一般トポロジー』の知識は前提となっています。つまり、測度理論、ε-δスタイルの議論、コンパクト・Hausdorff空間といった知識と、もう一方の言語学、記号学に関しては、ソシュールのいわゆる”恣意性”と”差異性”の概念について、少なくとも丸山圭三郎先生が理解したそれと同程度のレベルでソシュールの基本的な考え方を理解している必要があるということなのです。
ダグラス・ホフスタッター、デネット、ドーキンス、チャーマーズ、茂木健一郎…といった連中の著作を理解するには、数日で足りますが、フッサール、ハイデッガー、ニーチェ、キルケゴール、ソシュール、あるいは”測度理論”、”コンパクト空間”、”hausdorff空間”、”コンパクトhausdorff空間”、”Zornの補題”、”Urysonの補題”、”Tietzeの拡張定理”、”一般連続体仮説”…といった概念をしっかり理解するにはそれなりの時間と年期がかかりますから、それだけは念をおしておきます。尤も、とくに、コンパクト性、局所コンパクト性、一様コンパクト性といったことがらが瞬間にして何を意味するかイメージできるひとはこの世界での”オタク”でなければ駄目でしょう。(わたしは純粋数学については最小限度の知識しか持ち合わせていません。けれど、Zornの補題、Urysonの補題、Tietzeの拡張定理を教科書に沿って理解することは十分できます。ただ、自分でゼロから証明せよと問われればできませんが)
まあ、だいぶ話が横道に逸れてしまいましたが、”意味処理”をほんとうに制するには”意味論的空間トポロジー”を完全に理解できなければ絶対にできないということは保証します。
(以下、次回につづく)]]>
”人間の主体性について”
http://msaicc.exblog.jp/1024493/
2005-09-20T10:38:26+09:00
2005-10-02T22:34:18+09:00
2005-09-20T10:35:55+09:00
msaicc
価値なき神
http://app.blog.ocn.ne.jp/t/trackback/1981905
2005.09.20
人間の主体性と神の支配との関係
「価値なき神」の哲学日記 №33
人間の主体性と神の支配との関係、その1
at 2004 05/15 13:22 編集
私の哲学の本の一冊目は、一般の人にも読んでもらえるように、一定の面白さと、話に具体性を持たせるよう心がけて書いています。
------------------------------(以上は引用です)-----------------------------
人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことと相補関係になっています。したがって、そのように問うことは、神の存在そのものを前提として成立っています。現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところでありますが、現実問題としてはそのようになってはいません! 実際、自分あるいは自分の家族が極限状態におかれたときなど、そのことが顕著になります。
まあ、ジャック・モノー、リチャード・ドーキンス、ダニエル・デネット、ロジャー・ペンローズ、スチュアート・カウフマン、マレー・ゲルマンといったレベルの一連の無神論者たちぐらいになれば、少々のことが起こっても”唯物論”の立場を放棄するような”やわ”なことにはならないでしょうが、一般のほとんどすべてのひとびとは何か”こと”が起こると、都合に応じてころころと主張を切り換えてしまいます。(心情的にはよくわかります…)
さて、本題にもどりましょう。上にでてくるカタカナの名前の一連の人間がどういう人間で何を主張しているかそういう”細かい”ことは一切忘れてください! 上の一連の科学者たちは典型的な”唯物論者”たちであるというそのことだけを頭に入れておいてください。それで、今ここで議論しているのは人間の”主体性”についてであり、”主体的に生きる…”ということがどのようなことを意味しているのかを問うているわけです。
まず、上にでてきた一連の科学者たちは”主体的に生きてきたか…”と問えば、その答えはもちろん”はい”です。彼等はたしかに”神”の存在を否定していますが、唯物論の射程の範囲で”学問”について、”人生”について、”善”について、”悪”について、”進化論”について、”人間”について、”世界”について、”存在”について、”認識”について、”生命”について、その他もろもろの考察の諸対象について、できるだけ誠実に答えようとしてきました。もちろん、彼等の主張のすべてが正しいわけではありませんが、少なくとも自分たちが”唯物論”という前提に立脚してすべての議論を展開しているという、そのことに関しては”ブレ”はありません。
一方、”平均的なアメリカ人の場合は…”と問えば、これが大問題なのです! テレビのニュースなどで既にご存知かとお思いですが、彼等の80%ぐらいは”進化論”そのものを拒否しています。ある意味で”イスラム原理主義者”とかなり似たようなスタンスをとっているわけです。つまり、聖書のことばを文字通り”そのまま受け入れる ”…という立場を肯定するひとびとが、こと、アメリカでは圧倒的に多いのです。別にそのことだけなら大問題ではありません。実は、”主体的に生きる…”というこのことが、どのような意味でとらえられているかによって、その意味が違ってくるからなのです。
さて、一般にすぐれた科学者たちは議論の対象が”唯物論”の射程に収まるものであれば、それがどれ程複雑であれ、錯綜したものであれ、矛盾したものであれ、予想外のものであれ、最終的には論理的にものごとを考えて誠意をもって諸結論を受け入れます。一方、平均的なアメリカのクリスチャンは最初からそれぞれの宗派の主張するところの”信仰信条”を絶対的な”真理”として頑なまでに鵜呑みにしています! 尤も、そうなった理由は理解できないものではありませんが。
いずれにしても、”唯物論”を根拠に誠実に、かつ、主体的に生きている上記に示された一連の人々と、”聖書”を根拠に信仰的、かつ、主体的に生きている平均的アメリカのクリスチャンが、それぞれ、相手側の生き方の”主体性”そのものの妥当性を受け入れることができなくなってしまったとしたらどうなるのでしょうか?
人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことと相補関係になっています。したがって、そのように問うことは、神の存在そのものを前提として成立っています。しかし、現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところであります。そこで、議論を整理するとこうなります。
神の存在を前提とする人間にとって”主体性”とは”神”との関係における主体性である…と。
一方、神の不在を前提とする人間にとって”主体性”とは”宇宙(=物質)”との関係における自立である…と。一方は”精神”、”魂”、”意識”、”霊”、”ピュシス”、”プシケー”、”ゾーエー”といったものを存在の第一義性におき、もう一方は”物質”の存在のみに意義を認める立場です。
特に、19世紀から現在にいたる人類の歴史を鑑みるにつけ、物質と精神のこのふたつの関係に纏わるもろもろの現象が今日にいたる哲学の系譜を成立させてきたわけでありますが、このふたつの軋轢、断絶、相互否定…といったものがこれまでの人間の悲劇を生み出してきた源泉なのでした。
人間の主体性を問うことは、神の摂理を問うことも意味しています。神の存在を肯定する人間は、主体性を”神のまえの主体性”として認識しているのです。一方、現代思想の主流が唯物であることは誰もが認めるところでありますが、神の存在を否定する立場の人間が人間の主体性を問う場合、その主体性とは”唯物論”の射程のなかでの”倫理性”、”合理性”、”積極性”、”妥当性”、”有効性”、”実用性”…といったことがらに矮小化されてしまうことも、これまた事実なのです。
問題は、自分あるいは自分の家族が極限状態におかれたとき、最後まで”唯物論”の範囲ですべてのものごとを解決することができるのか否かです。
この議論はさらにつづきます。
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自己言及
http://msaicc.exblog.jp/1007054/
2005-09-19T08:32:48+09:00
2005-10-02T12:47:55+09:00
2005-09-19T08:29:36+09:00
msaicc
人工知能
哲学ブログ、哲学日記、哲学xxxといった”ことば”が流行っているようです。しかし、しかしですよ、ニーチェ、キルケゴール、フッサール、ハイデッガー、ヘラクレイトス、ソシュール…といった一連の大天才たちの思想を全く理解できていないのに哲学ということばがそれだけでひとり歩きしている、この日本的な現象、どう思いますか?
上記の哲学者レベルで哲学を理解することができる人間の確率は1/10億、1/100億ぐらいかと思います。ちなみに、将棋の羽生さんは将棋に関しては1/1億ぐらいの確率です。哲学も将棋も脳みその酷使という点では同じですが、人類への影響という意味では1対無限の開きがあります。別に将棋の天才を貶すつもりはありませんが、ゲームの達人と上記に示された一連の人間の存在の重み、凄さ、深さ、射程、その他すべてのことを考慮しても”哲学”の天才たちはやはり凄い…としかいいようがありません。
インターネット、ブログ、ウィンドウズ、UNIX、LINAX、…といった一連の技術が主として米国主導で実用化され、戦略化され、グローバライズ化され、今、このようにして私のような人間でさえこのような雑文を全世界に目掛けて発信することができる…のですが、このことは何を意味するのでしょうか?
私の大好きな思想家のひとりにキルケゴールがいます。20才から30才ぐらいまでの約10年の歳月をかけて彼の著作集をほとんど全部読ませていただきました。哲学的断片のあとがきも全部読ませていただきました。そこで思ったことがいくつかありました、彼の『反復』という作品があるのですがあの作品は少数の人間にのみ発信することを想定して書かれた書物であるそうですが、(作品を読めばそのような構成になっています)、もし、あのような作品が現在のこのブログ文化ではどのように受け入れられるのでしょうか?
言っていることがわかりますか? 書店へゆけば無数のゴミ(あっつ失礼)が、サイト一覧を覗けばそれこそ書店のゴミの数をはるかに凌ぐ天文学的量の”塵”がひしめきあって、ダーウィンの自然淘汰のあの世界、ダニエルデネット、リチャード・ドーキンス、マレー・ゲルマン、スチュアート・カウフマン、ロジャー・ペンローズたちが指摘しているあの現象を展開しているわけですが、皮肉なことにアメリカもイギリスも国家レベルでは既に淘汰される側に移行してしまいました!
インド、中国、日本、この三国がこれからの新しい時代の新しい地獄を演出する主役になる訳ですが、もう一方の主役が新ヨーロッパ合衆国であります。で、このふたつの陣営が世界最終戦争の主役になるわけですが、クリスチャンおよび非クリスチャンのいずれの立場を採用するにせよ、生き残れる確率…というより”真の救い”あるいは”真の悟り”に到達することのできる確率が1/10億あるいは1/100億であることは実に興味深いことではありませんか!
私ですか? 私が救われる確率など1/1兆ぐらいですよ。でも、でもですよ、実際、ニーチェやキルケゴールのような例外が存在したように、例外は必ず存在するものです。例外者のみが救われるのか否かは別として、例外者(キルケゴールのことばでは単独者)が例外者について自己言及的に関与することは哲学のひとつの”ありかた”ではあります。
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思想遍歴 (その3)
http://msaicc.exblog.jp/1002850/
2005-09-18T23:59:01+09:00
2005-10-02T12:48:36+09:00
2005-09-18T23:57:09+09:00
msaicc
思想
1981年(30才のとき)最初のうつ病を体験しましたが、1990年1月(42才のとき))、二度目の強烈なうつ病を経験しました。その後、自分の思考と思索は宗教や文学、哲学だけでなく、言語学(丸山圭三郎)、AI(人工知能;長尾真、)、認知科学、認知工学、知識ベース、知識処理、意味処理、意味論、意味論的空間トポロジーといった諸の専門分野の研究に没頭することになりました。また、上記の専門分野での学問に加え、2000年から2005年にかけてハイデッガーの『ヘラクレイトス』について約10000回の反復した読書により、その『ヘラクレイトス』という著作を自分のものにすることができました。 実に『キルケゴールの全著作集』を読破するより10倍もの時間とエネルギーがたったこの1冊に費やされたのです!
『ヘラクレイトス』について、解説はするつもりはありませんが、内容的には”空海の世界”、”ウパニシャッドの哲学”、”ヴェーダの世界”などに近いもの感じました…。要するに、極めて非西洋形而上学的な思想であるということなのです。
直感としての私の印象は”西洋形而上学”そのものの根底が終焉しつつあるようなそんな印象を受けたのですが、これからの歴史がどのような方向に人類を向わせるのか、興味は尽きないものがあります。また、インドのこれからの技術的、経済的発達及び発展が人類全体に何をもたらすか、これにも興味を擁いているものです。
要するに、何が言いたいかと言えば、欧米が中心となってこれまで引っ張ってきた物質文明、技術文明、西洋形而上学そのものの妥当性が揺らいでいるというこのことなのです。
比喩的に述べれば、最も西洋形而上学的なものが西洋形而上学的なものを廃絶させる…というこのゲーデル的な矛盾、このことにある種のアイロニーを感じない訳にゆきません。]]>
情報改竄 vs ブログ
http://msaicc.exblog.jp/974808/
2005-09-17T01:18:26+09:00
2005-10-03T00:04:59+09:00
2005-09-17T01:15:57+09:00
msaicc
神経科学
AI、認知科学、神経科学、進化論…といった一連のコンテキストの流れの中でブログにおける情報改竄の可能性について論じてみたい。
今、このようにブログという媒体にデータを打ち込んでいますが、このデータが改竄されないという保証はどこにもありません。そのことを”オーウェル流改竄”とダニエル・デネット氏は『解明される意識』という著書でやや詳しく述べています。つまり、頭脳における時間把握のメカニズムにおいてリベット氏の実験に基いて、諸々の時間遡及の現象について論じている箇所があります。このデネット氏の議論の展開の特色のひとつとして諸々の”思考実験”を組み立てて、そのコンテキストに基いて論理の諸帰結を導き出そうとしているのが特徴です。
このデネット氏に対峙するのがチャーマーズという若い神経学者です。基本的にはデネット氏もチャーマーズ氏もほぼ同程度のレベルで脳科学、神経科学という比較的新しい分野での研究を展開しているのですが、デネット氏はドーキンス氏と同様に徹底した一元論者、すなわち、唯物論者の立場を主張するのに対して、チャーマーズ氏は日本の茂木健一郎氏と同様、二元論、すなわち”デカルト”の身心二元論の立場を提唱している点にあります。
わたくし個人としては、少なくともAIの設計レベルにおいては”一元論”すなわち”唯物論”の立場に立っています。ただし、コンピュータに人工的に”意識”をインプリメントすることが実際に可能になったと仮定すると、人工的に”意識”を扱うことができるシステムが実際に運用される場合、既に唯物論を超越したコンピュータの動きあるいは働きが展開されるのではないか…という非一元論をある程度認めなければ説明がつかないのではないかと思っています。
さて、人工精神が可能であるか否かは人工知能が可能であるのとはかなり違った要素を含んでいますが、少なくとも原理的には人工知能が可能であれば人工精神の創出も不可能ではないような気がします。しかし、人工精神の難しさは人工知能の難しさの数万倍から数十万倍、あるいは数百万倍ぐらいあるのではないでしょうか。
しかし、本日ここで議論したいことは、人工精神の設計ではなく、既に蓄積されたブログの情報を何らかの組織、あるいは何らかの権力が勝手に改竄することが可能なジョージ・オーウェル流の改竄システムが実際には構築されるのではないか…という現実的な惧れなのです。
実際、インターネットの運用におけるウィールスの猛威、あちこちで発覚しているネット利用の諸々の不正、その他およそ数え挙げれば限がない程多くのことが既に指摘されていますが、そのようなことを鑑みるにつけ、国家あるいは強力な権力による情報操作(=情報改竄)など朝飯前なのかもしれません。
ぶっちゃけた話、自分で入れたブログのコピーは別の媒体に保存しておくしか改竄から守る手段はないのかも知れません。いずれ、巨大な”情報省”が”郵政省”にとって代わる日が来るのは目に見えていますから…
※ 当該ブログは名目として”哲学日記”と題していますが、議論の重要な項目のひとつとして、AI、神経科学、人工精神…といった分野があります。これは、これからの学問になりますが、特に数学(位相数学、超ひも理論、その他)、量子力学、そして脳科学、神経科学といったものが複雑に学際的に融合して展開されるジャンルでもあります。
※ 参考となる分野
■ 純粋数学: 位相数学、測度理論、意味論的空間トポロジー
■ 人工知能: 記号論、意味論、知識処理、知識ベース
■ 人工精神: 意識についての自然科学的アプローチの限界
■ その他: 記号処理、意味処理、知識処理、
※ いずれ時期が来ましたら、人工知能および人工精神(=ゾンビ、ジンボ)についての諸々の議論の詳細についてこのブログで展開するつもりです。
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閑話休題
http://msaicc.exblog.jp/946097/
2005-09-15T06:53:41+09:00
2005-10-02T12:50:28+09:00
2005-09-15T06:50:26+09:00
msaicc
世界最終戦争
3つの寸劇
● 寸劇その1: 楽天 vs ライブドア
もうこのお話しは大昔しの話題になってしまったような感じですが、あのころはライブドアのホリエモンさんが悪役で、楽天の三木谷さんが正義の味方…といった組立てで一連の丁々発止が展開されていました。大昔しといっても高だか1年前に過ぎませんが…。 で、この劇で得られたいくつかの帰結は、ぶっちゃけた話、プロ野球には未来がない! という恐るべき現実ではないでしょうか? もちろん、三木谷氏はそのことによってそれなりのメリットを引き出しているようですが、どう考えてもプロスポーツとしての”野球”はその耐用年数あるいは減価償却が既に終っているようなそんな気がしてなりません。もっと言ってしまえば、米国のメジャーリーグだってもう既に色褪せているのではないでしょうか。
このことは、あの9.11テロのとき既に漠然と感じていたことではないでしょうか! あのような衝撃を実際に近くで体験してしまえば、メジャーリーグでのプレーそのものが言葉が非常に悪いのですが”マスタベーション(=笑劇)”以外の何物でもないことは誰だって直観的に洞察することができます! それであるが故に、この夏、イギリスのテロの直前に”アフリカの貧困を真剣に考えよう”運動が展開され、さらに、今回のハリケーン”カテリーナ”の災害によって益々顕著になりつつあるのではないでしょうか!
実際、イラク、アフガニスタン、ルイジアナ、その他全世界て紛争、内戦その他諸々の厳しい現実の中で生活しているひとびとの視点から眺めれば、アイスクリームを舐めながら楽しそうにベースボールを鑑賞しているようなそんな余裕などある訳がありませんものね! で、さすがの呑気なアメリカ人もようやくそのことに気づきはじめたみたいです! でも、もう手遅れです!
アメリカという国家そのものが奈落の底へ向ってものすごい勢いで驀進しているイメージをどうしても打ち消すことができません! 以上が寸劇1)から受けた第一印象でした。皆さんはどうお思いですか?
● 寸劇その2: フジテレビ vs ライブドア
このお話は最初のお話しと違ってまだ記憶に新しいことかと思われます。で、結論から言えば、フジテレビさんもライブドアさんもどちらさんも”儲かる”ことができてメデタシ・メデタシといったところでしょうが、実際にはテレビの時代が終焉したことを意味していることを洞察できたひとがどれだけいるのかわかりませんが、少なくとも察しの早いひとはそのことを感じ取っていることは間違いなさそうです。
野球の時代が終って、サッカーの時代になったということが人類にどのような影響を及ぼすかは知れたことですが、メディアの媒体形体として”テレビ”から”インターネット”にその主役が移ったということは、現にこのように”ブログ”で意見を発信しているこの現実をどのように認識しているか、それだけでなく、この亊に対してどのようなリアクションを展開するのか…ということまで含めて、これまでの一方通行の情報伝達からいわゆる双方向のコミュニケーションのそういう時代に変わっていることをしっかり認識することが本筋です。
しかも、イラク、アフガニスタン、パキスタン、パレスチナ、その他世界のそれぞれの現場で、何がほんとうに起こっているのか…、やがてこの”インターネット”という媒体を経由して剥き出しの事実としてわたしたちの現前に顕れることでしょう。そして、驚くべきことに、あの米国が勝利者の側ではなく、まぎれもない敗者の側に運命つけられていることを見逃してはならないでしょう!
● 寸劇その3 小泉組み vs 岡田組み
やくざの親分である小泉は長年の宿敵たちを長い長い年月を掛けて徐々に、徐々に真綿で絞め殺すように、段階を踏んで粛清することができた。そして、今回その最後の仕上げとして残る最後の敵たちをどのように抹殺するかいろいろ案を練っていたところである。一方、上流家庭の坊やである岡田は自分の店である”岡田商店”を全国に売り出すため小泉系列の店と競争して自分の地位を確立しようと希望にもえてチャレンジしていた…
”やくざ”と”坊や”との折衝だなんて…話が違うじゃないかと”読者”からクレームが来そうですが、まあ、まあ、それは寸劇として大目にみてください。とにかく、今回のこの寸劇、笑劇、衝撃的笑劇、笑劇的衝撃、その結果は皆さんが鑑賞されたまさにそのことです。
戦後60年、これまでのわが国が歩んできた基本的な路線は名目は”自由民主主義”ということでしたが、その実体は”言論の自由が付加された共産主義(擬似社会主義)”という全世界が羨むような恵まれた状況に奇蹟的に置かれてきました。もちろん、朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他無数の戦争の生贄の血を間接的に享受しながら…(自分たちがアメリカ人と同程度に搾取する側にあるということを認識している日本人は100万人にひとりぐらいしかいない筈;そのようにアメリカが日本人を洗脳しつづけてきたから…)
しかし、かつてのソ連のゴルバチョフではないが、小泉親分は自分の”組み”がもはや全員を食わしてゆくだけの余裕がないことに気づき、強者・弱者の選別方式をとりいれなければならないことを受け入れ、非情なまでに改革路線を遂行する方針を決めた。これは、彼が権力の中枢にいたからこそできる決定でもあるのだが、エリート坊ちゃんの岡田君はまだまだ権力の中枢に自分が上るということの”ほんとうの”意味を理解できないでいた。
もっとはっきり言えば、小泉親分がこれまで舐めてきた”悔しさ”、”苦しさ”、”哀しみ”…といったものの合計がその数十倍に達することがない限り岡田坊やが一人前のやくざの親分になることなど永久に無理なんです。
小泉親分だって、世界のもろもろの親分に比べれば”岡田坊や”のレベルでしかありません(残念ながら…)
という訳で、民主党の皆さん、小泉親分の数十倍もの”悪魔”を育てない限り政権を奪取することなど夢のまた夢に終ってしまいますよ。 政治に関るということは”悪魔”になるということを意味しているのです。逆に、国民はすべての政治家が”悪魔”であることを認識すべきであり、その上で、自分に最も害の少ない”悪魔”を択ぶのが政治あるいは”選挙”との拘りなのです。
いずれにしても、戦後60年の歳月を経てようやく”選挙”というものが”悪魔”の選択であるということを国民が知ったことは喜ぶべきことなんでしょうが、もう遅過ぎます。小泉親分でもどうすることもできないような”目に見えない悪魔”にわれわれは魂をあずけてしまったからです!
しかし、それでもわれわれは”政治”に関ってゆかねばならないのです。仮に、人類のすべてが最終戦争で滅びるとわかっていたとしても、それから逃れることはできないのです。残念ながら。
以上 3つの寸劇からのメッセージでした。
※ 関連ブログ
■ ライブドア、哲学日記: http://blog.livedoor.jp./msaicc/
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投票日翌日
http://msaicc.exblog.jp/910688/
2005-09-12T23:46:50+09:00
2005-10-02T13:05:17+09:00
2005-09-12T23:44:56+09:00
msaicc
神経科学
ある意味で予想された結果ではあります。もちろん、これ程までの結果になろうとは誰も予想していなかったかも知れませんが…
要するに、
■ 平均的日本人は…であるということがこの結果を反映していること
■ 自分たちがしてしまったことがどのようなことを意味しているか理解していないこと
■ これから、自分たちが何処へ向っているか何も知っていないということ
※ ただ、このような行動パターンは日本人だけでなく、ほぼ地球上のすべての国々のひとたちの行動とあまり違いがないということでもあります。
※ 選挙結果の分析は”御用学者連中”に任せておきましょう!
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投票前日:
http://msaicc.exblog.jp/867084/
2005-09-10T02:48:52+09:00
2005-10-02T12:50:28+09:00
2005-09-10T02:46:35+09:00
msaicc
世界最終戦争
どのような結果になろうとも、これまでの政治的パターンは着実に変化してゆくことでしょう。何もそれがいいのか悪いのかといったことではなく、既に時代は新しい枠組みに切り替わっているということです。
米国は既にスーパーパワーの地位から急速に転落しつつあります。それに代わって、中国、インド、ロシア、そしてヨーロッパ各国の著しいスーパーパワー化が挙げられます。
そしてわが国日本がこれからどのような方向性を示すのか…といったことがらがこれから問われることになるわけですが、そのとき、わたしたちひとりひとりはどのようなことが問われるのでしょうか?
■ 勝組み・負組み(=薪階級社会)の社会構造をどのように修復してゆくことができるのか?
■ 少子化に伴って、リストラ人員、ホームレス人員、失業者…といったひとびとをどのように戦力に組替え直してゆくのか?
■ 少子化に伴って、AIを使ってどの程度まで生産活動が可能か?
■ 年金、税金、雇用、教育、憲法、外交…といったもろもろの基本的なことがらをどのように切り開いてゆくのか?
いずれにしても、わたしたちはひとりひとりがこれからの歩むべき道を考えてゆかなければならないそのような局面に位置しているのではないでしょうか?
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巨大ハリケーン:カトリーナ
http://msaicc.exblog.jp/756522/
2005-09-02T20:31:37+09:00
2005-10-02T12:50:28+09:00
2005-09-02T20:29:21+09:00
msaicc
世界最終戦争
まだまだずうっと先のことではありますが、米国は政治的、経済的、軍事的、文化的、その他すべての面に関して、着実に衰退してゆくことが今回のこの出来事でも読取ることができます。
このこと(米国内部での貧富の落差)が指摘されて随分久しいのですが、現状は一向に改善されないのみか、益々不公平が拡大しつつあるのが現状ではないでしょうか?
このことは我が国(日本)でも同じ様に推移しているのですが、米国の同じ問題と比較しするといくつかの決定的な違いがあります。ひとつには、日本の場合人種問題が事実上ないということです。また、日本の場合、政治的な方法を上手に採用すれば再び格差が大きくならないような方向へと軌道修正することが可能であるということです。
日本人の基本的な行動パターンは非西洋的なものであり、これはイスラム教社会のひとびとの行動パターンとも決定的に異なるものであります。
欧米、とくにアングロサクソン系(イギリス系、WASP系等)の文化パターンと我が国の平均的国民感情は極めて異なる文化構造にあることを理解する必要があるということです。
(つづく)
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思想遍歴 (その2)
http://msaicc.exblog.jp/684852/
2005-08-28T18:10:16+09:00
2005-10-09T19:57:11+09:00
2005-08-28T18:08:05+09:00
msaicc
思想
昭和55年(1980年)12月24日、数ヶ月前から悪化していたうつ状態がその極限に達し、ときに、自殺寸前の状態で近くの町医者のドアを叩くことによって間一髪、一命を取り戻すことができました。
もし私に思想遍歴という言葉が許されるものであればこの原体験が契機ということになります。もちろん、子供の頃から”人生について”、”生きることについて”、”人間とは何か”、”時間とは何か”、”善と悪はどこから来るのか?”といったことを随分考えて来たことは事実でありますが、自分が”生きるか死ぬか”の極限まで追い込まれた状態で”生きる”ということがどういうことなのか…ということを考えさせられたのはこのときが始めてでした。
自分がなぜ”うつ病”になってしまったのかその原因は全くわかりませんし、また分かろうとする積もりもありません。ただ言えることは昭和47年ころから昭和56年頃までの約10年間の期間において、キルケゴールの著作、”不安の概念”、”あれかこれか”、”反復”、”哲学的断”、”死にいたる病い”、”おそれとおののき”、”キリスト教の修練”といった一連の著作を読破していたこと、田川建三氏のそれまでの殆どの著作を読解したこと、それと同時に八木誠一氏の主要な著作群および滝沢克巳氏の主要な著作群それにニーチェのいくつかの著作を読解していたこが挙げられます。
つまり、外面的には”敬虔な”クリスチャンとして教会生活、信仰生活、会社員生活…といったことをこなしつつ、内部ではニーチェの哲学とか田川建三氏の著作からの唯物史観的なものの見方考え方とがわたくしの精神的な内部において激しい自己矛盾を展開させるようになっていったのです。
もちろん、その当時はそのようなことは全くわかりませんでした。うつ病から10数年あるいは20数年の歳月を経た今だからこそこのようなことが回想されるのです。
いずれにしても、この”うつ病”の体験は、それまでキリスト教信仰が自分の実存の絶対的な根拠であったのですが、そのような”信仰の絶対性”そのものの根拠を疑ってみるような、そのような直感、洞察、偏向…というようなものを自分の人生に新たに齎したのです。(つづく)
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思想遍歴 (その1)
http://msaicc.exblog.jp/676530/
2005-08-27T23:38:39+09:00
2005-10-02T12:48:36+09:00
2005-08-27T23:36:55+09:00
msaicc
思想
帰国後、私はコンピュータのオペレータとして業界デビューを果たしました。当時、コンピュータ技術者はある意味でエリートの仕事でありました。もちろん、私はこのコンピュータの分野ではハードウエアの部門でもソフトウエアの部門でも全くの素人でした。しかし、昭和47年から昭和50年までの3年間でごく普通のコンピュータ・プログラマとして会社員生活を送っていました。
この期間における読書といへば、1): ”聖書”、2): ”コンピュータ関連の教科書&参考書”
この二つのジャンルの読み物だけでした。
せっかく小学生、中学生、高校生、大学生といった期間にそれなりの思想書に触れていながら、実際に社会人になってしまうとこのように非常に貧しい読書生活しか展開できないのが現実なのでしょうか? とにかく、昭和47年から昭和56年までのやく10年間は聖書以外の書物を殆ど読んだことがないといっていいほどの暗黒時代であったことは間違いありません。
繰り返しますが、小学校、中学校、高校のそれぞれの時期に基本的に受験勉強中心にガリベンしてきたわたしは、無事米国の大学を卒業して帰国することができました。そして、その期間に学んだことは”神”は存在する…というこの考え方でした。
小学生5年生のとき既にパスカルの『パンセ』に出会っていた私は、実際に”聖書”に出会ったときのあの異質なものとの遭遇といったような心理学的、教義学的、論理学的な諸々の反動を経験することはありませんでした。ある意味で(フロイト流に言へば)、予め無意識のレベルにおいてキリスト教的なものへのチャネルづけができていたのかもしれません。
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小学生5年
パスカル(パンセ) <------- 中学生時代 ------->
フロイト、フロム、フランクル、…
<--------大学時代------>
聖書、一般教養、数学
☆キリスト教との出会い
一般教養: 文学、歴史、心理学、その他
専攻学問: 位相数学、微分幾何学、その他
図の意味: 小学生時代、中学生時代、大学生時代の3つの時代を通して実際に自分が到達した一次的な結論は”キリスト教的なものの見方、考え方、…”というものが基本となっているということを示しています。
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プロフィール(その3)
http://msaicc.exblog.jp/675559/
2005-08-27T22:43:01+09:00
2005-10-09T21:05:25+09:00
2005-08-27T22:40:37+09:00
msaicc
思想
大学時代を通しての読書の中心は”聖書”でした。もちろん、ジェームス・ジョイス(”若き芸術家の肖像”)、スコット・フィッツジェラルド(”グレート・ギャッツビー”)、といった文学書も読まされましたが、私の4年間の留学生活は数学における基礎的な訓練、すなわち”位相数学”、”測度理論”、”微分幾何学”、”位相幾何学”といった一連の数学の訓練と文学、歴史、宗教、心理学、哲学、社会学といった一連の一般教養の研鑚でした。
とにかく、奨学金留学ということでありましたので平均のグレードが”B+”を下回ってはいけないということで真剣に勉強しました。特に、文学、歴史、宗教…といった一般教養が自分にとって極めて困難な課題であったことを今でも思い出します。
いずれにしても、わたくしの4年間の大学生生活は、1):基礎数学の勉強、2):一般教養の研鑚、3):異文化との遭遇およびそれに対する順応、4):キリスト教との出会いおよびキリスト教への入信、5):キリスト教経由での”生きることの意味”への自己への問いかけ…といったことが中心的な課題でありました。]]>
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